昭和50年08月06日 朝の御理解



 御理解 第20節
 「此方が天地金乃神よりおかげを受けておることを話にして聞かすのぞ。疑うて聞かぬ者は是非に及ばず。可愛いものじゃ。又時を待っておかげを受けるがよし。銘々に子を持って合点せよ。親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。言うことを聞かぬ子は親も仕方があるまいが。」

 親の言う事を聞かぬ子が一番つまらぬ。毎日お参りさせて頂いておる。だから親の言うことを聞いておるかどうか、私はここん所を信心のない者、または信心の薄い者に対するみ教えの様に思うておったけれども、なら信心を頂いておりましても、皆様のように毎朝、云うなら朝の御祈念に参って見えると言う事。だから親の言う事を聞いて居るかと云うと、これは聞いていない人の方が多いのではなかろうかと思うですね。
 聞いていないのと同じ事。いや毎日御理解を頂きよりますと、成程只聞くと云うだけではないのです。親の言う事を聞くと言う事は、親の言う事を行ずると言う事なんです。と言う事になって参りますとですね、沢山な信者信奉者はありましてもね、果して親の言うことを聞いて親の喜ぶ様な氏子、子供としてのおかげを受けとる人は極稀では無かろうかと思います。してみるとこれは私共各自がこれは親の言う事を聞かぬ子が一番つまらんと、言わば一番つまらぬ信者と云う事になるのじゃないでしょうか。
 親の言う事を聞くと言う事は、只親の言う事をああせにゃいかんぞ、こうせにゃいかんぞと言う事を、只ハイハイと言う事を聞くと言う事ではない。ハイハイと云うなら次には行に表して行くと言う事だと思います。ハイハイと口だけ、云うならこの御理解を頂いて居るだけで、信心が一つも進まない聞いておるだけで一つも改まらない、聞いておるだけで本気で磨こうともしない。
 そして何かお願い事だけは一生懸命する事は、親の言う事を聞かずに、親に言う事を聞かせようとばかりしておると、言う事になるのじゃないでしょうか。親に言う事を聞かせようとばかりしておる、私は今日はそういう風に感じます。幾ら言うて聞かせても信心しようともしない。神様の方に心を向けようともしない。そげな生神様とか何とか、例えば信心のない者が言うたり思うたりしておりましょう。
 そういう様な氏子の上にです、言う事を聞かぬ子は親でも仕方があるまいがと、云うならばこれは神様の悲しいお言葉だと思いますけども、なら果して信心を頂いておりましても、なら日参り夜参りさせて頂いておりましても。話だけは聞きよる、御理解だけは確かに聞きよりますけども、それを行に表していないとするならばです。それは親の言う事を聞いておる事にはならない。
 云うならば親の言う事を聞かぬ子は親でも仕方があるまいがと言う事になるのじゃないでしょうか。おかげを受けたい。それなら先ずおかげの受け物を作れと。昨日壮年部会で遅くまでお話、皆さん聞かせて貰ったりさせて貰ったりさせて貰うた訳です。まあ石井喜代司さんが例によりまして、難しい話をしよりましたが、まあ要約するとどう言う事かと云うと、おかげの受け物を作る事に一生懸命になれと云うております。そこには難儀とか何とかは起こっちゃ来ないと。
 又云うならばですお互いの信心がです。そういう言葉使いませんでしたけれども、まあそれを云うならば、お互いが罪滅ぼし的な信心をしているのじゃないかとこう云うております。親の言う事はああせにゃこうせにゃと言う事を聞きゃおるけれども、行じていない。行じていないから行じていない事に気が付いている。そう言う事じゃいかんと思いよるから、云うならばお詫びのしるしと云うか、云うならば罪滅ぼし的信心ではないかと云う意味の事を云っておるのではないかと私は聞きました。
 だから私共の様におかげの受け物を作る為に、朝から晩まで一生懸命取り組んどる者はそげんお参りせんでもよいと言わんばかりの事を言うとりました。成程あの人の行き方から云うたら、日参り夜参りしよる者はおかしい位でしょう。そしておかげを受けきらんと云うたら尚更おかしいだろうと思いました。例えて一言で云うならば、例えばお参りして来んでもこの人はどんな事が起こっても。
 絶対腹を立てんと云うのですから。腹立てば心の鏡の曇る事と云う御教えを頂いておるか、頂いていないか知らんけど、今日はその御教えを頂いて行の上に実際に表しておると云う事です。信心させて頂いて、毎日お話を頂いておるけれども、お参りさせて頂いておるけど、腹を立てればもうおかげはそこで消えて仕舞うと頂いとっても、やっぱり腹を立てておる。これでは本当に腹を立てておるのですから、ああ自分はこげなことじゃつまらんとお参りするなら、罪滅ぼし的な信心です。
 罪滅ぼし的な信心ではうだつは上がらんと云うのです。あれはもし喜代司さん以外の者が話しとったら、誰も耳を傾ける者はないだろうと思います。所がこの人は事実おかげを受けておるだけじゃなくて、事実行の上に表しとると云う事です。言う事を聞かぬ子は親でも仕方があるまいがと云う所をです、腹を立ててはならんぞ悔やんじゃならんぞと、此方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんぞとまで教えて下さいましたから、この問題をどう喜ばせて頂くかと云う事言わば頂き方しない訳です。
 それを悔やんだり腹を立てたりして受けておるのですから、親の言う事を聞いておらんのだから同じ事です。それこそ親の言う事を聞かん子は仕方があるまいがと、神様を嘆かす事になる。それでも、やっぱり参っちゃ來る。それはどうも、行の上に表しきらんでお詫びをしよる様なもの、罪滅ぼしの様な信心。それでは悲しい事であって、お道の信心をさして頂いて、本当に信行一致と申しましょうか。
 そういう行き方で本気でしかもね、此処よりも、家での方が取り組んでいる様な行き方を、一つおたがい体得したいですね。昨日もでした。久富繁雄さんのお届けを聞かせて貰うて、あんたほどしの者でも腹が立った事もあるけんでと、あそこの孫がこんど七夕さん、息子やら嫁やらは自分の息子だけれど構わん、もうあっちこっちから、西瓜やらお祝い貰うたりしよるのにも拘らずしてやらん。もう私はもやもやしましたけんでと、こう云うお届けがあったんです。
 繁雄さんそげな事にもやもやする事がいるのと私が申しました。例えば此処んにきは、ちいたあ超越しなければいけないと云う事は、普通で云うなら、私の家の事でも、いくら初孫であろうが、何であろうが、さあお節句とか、色々ありますね。そげな事を本気でしてやろうと思うた事がありません。私は信心頂いとるなら、そげな事は何もいらん。するならそげな事する事はいらん。いらん金がかかっても云わんです。
 親達がおってちから七夕さん祝いですかね、をしてやろうがやるまいが、まあじいさんとしてからしてやろうごとある。ところが息子やら嫁達は構わん。だからもやもやしてとこう云う訳です。そのもやもやがいかんとです。だからもちっと、こちらが如何に豊かに大きくならにゃいかんかと云う事です。そういう事はね、おかげを頂くとか頂かんとは全然、七夕さんのあれをしたけんでと云うても、なかつじゃから、しかもその事をそんなお届けをされるから。
 そんな事にもやもやせんでん、あんた程しの人が、そん位の事どんもやもやしてからと云う訳ですけれども、結局もちっと本気で豊かに大きくならねばいけない。結局なら皆がせんじつめると、どういう事かと云うと、信心を頂きに來るのではなくて、おかげを頂きに來るのが、矢張り主になっとるからではないかと思うのです。神様はね成程おかげ頂いて呉れと云うて御座るですけれども、氏子信心してと云うとられるんです、参って来い参って来いおかげをやるぞ、おかげをやるぞとは仰ってはないです。
 氏子おかげを受けて呉れよとしかもその信心によって徳を受けて呉れよ、力を受けて呉れよと云う事です。昨日秋永先生が信行の時の二十七日の御理解の所の一番最後の所の、そういうおかげの姿勢と云うものを先に作らなければいけないと云う事を、云うておられますが、あれはどういう意味ですかと云うてお伺いがあったんです。もうこっちは待っとりましたと云わんばっかりに。それに対して返事さして頂いた事で御座いますけどね。これ程しのおかげを朝晩毎日おかげを頂いておられるのに。
 皆さんが本当に分かって行きよるだろうかと、行じようとしないから、了解っとるやら了解っとらんか只聞いておるだけではないだろうかと、これを本気で今日親先生があんな事を言うたからと云うてです。それを行じて見ると、そこに分からない所が、出来て來る筈なんだけれども、それを伺おうとも尋ねようともしないと云う風に私が申しましたら、秋永先生とにかくね、なら今朝当りのおかげを頂いとっても、あの御理解を初めておかげと、お供えとつきものではないと。
 昨日の御理解でしたね、あれを平面的に普通頂くのに、縦にですかね、深く言わば深く広く頂いた。そして御理解を頂いてみて、ああ成程こ、の御理解はこういう深いものかと云う事が分かると云うのです。そして翌日來ると、ああもうほんに素晴らしいこう云う事であったかと云う事が分かると云うのです。あんまり次々分かって行きよるけんで、次々と行ずる暇がなかと云う。
 だから結局皆が尋ねるとか、お伺いする事が出来んのじゃないだろうかと云う事を、ほんにそうかも知れんのと云うた事ですね。神は向こう倍力の徳を授けると云う御理解の時に、皆さんがこの様に炎天下夏期信行に打ち込んでおられますが、これで徳を受ける事にはなりません。お徳を受ける腹づくり、または心を練る修行をなさっておるのです。徳を受けるチャンスは何時もあるのではありません。愈々の時迷わんで済む、動じないで済む命をかけての信心をせねばなりません。
 即ちままよの心です。背水の陣です。一切を任せきっての次の信心姿勢一つが徳を受ける決め手です。と云うここが分からないと云うのです。徳を受ける決め手、姿勢と云うのはどう云う事ですかと云うのです。だから私はここの時にはお話しました。これだけではなくて、甘木の親先生の事とアメリカにお出られた福田先生のお話をしましたよね。確かに、いよいよの時にね、ああ云う行き方がです、背水の陣だと。
 例えばお米のお供えがなからねば食べんと反物のお供えがなからねば着らんと、そういう行き方を徹底された。そしてお試しがあった。とまあお話をしたですね。そのお試しを見事乗り越えられた。その向こうには人がどんどん、どんどん助かったと云うておられる。と甘木の先代の奥さんが話たんです。又は福田先生がアメリカへお出られた。あちらに布教に出られたから持ち金全部を送られた。あちらへ到着される時点で、全部またお世話になられた教会へお初穂として送ってしもうとられる。
 如何に神様を刻々の中に生きた神様を頂いておられた事が分かるです。云うなら背水の陣であります。そう云うならお徳を受けるチャンスはそう何時もかつもあるもんじゃないですから、愈々いざと云う時にです、そこん所をスキッとできる姿勢を日頃作っとかなければならんと。その日は秋永先生は田主丸教会の大祭の講師としてお話に行っとりました。だからそこん所頂いておらじゃったじゃろうと申しておりましたがです、その時に甘木の先生のお話と、福田先生のお話を聞いとればです。
 姿勢と云うものが分からなければならない。そして例えば昨日一昨日です、桜井先生の奥さんが具合いが悪い。そこで奥さんのお母さんかお父さんかどっちかが見えてから、医者にかけて呉れとこう云われる。それで医者にかけますからと云う電話があった。行かれたけれど丁度お医者さんが、おかげを頂かれてお休みじゃった。大体この辺でですのや、ピンと來なけりゃならんとこじゃないでしょうか。
 お互いがもう背水の陣が敷かれる、もう愈々困る愈々難儀、愈々になるとああそうですかになってしもうとるです。ここん所に真の力と云うものを頂くでしょうもん。私の方の若先生が竹が目にのこって引っ張って抜いた時、目ん玉が外へ出て仕舞う様な事になった時に、近所にその一緒に遊んどった子供のお母さん達が皆出て見えてから、とにかくお医者さんに見せち呉れと云われたけれどもね。
 この神様は内科の方だけしか出来ん神様じゃない。外科も出来なさりゃ眼科の方もちゃんと出来なさるとじゃからと云うて、見せませんでしたけれどもです、そういう時に私は徳を受けたちゃろうと、まあ徳を受けたとするか、力を受けたとするならば、そういう時におかげを受けただろうと申しました。まあだ椛目に人が段々助かって來る時分でした。或御祈念の時に神様から母か父かどっちか知りませんでしたが、お国替えの様子を頂いた。もうそれこそ私はびっくり仰天致しました。
 そして今死なれたんじゃ、もう目も当てられんと思いました。もうこの両親に孝行したいばっかりに信心に一生懸命はずうたっちゃ、それにまあだ本当に思う存分の事も出来ないのに、今死なれたんじゃ目も当てられんと思いました。それでいっちょ神様にどうぞ丁度その時分には勝彦、いわゆる若先生と豊美と愛子と三人の子供とおる時でした。子供の命と取り替えて下さいとお願いをしたんです。そしたら神様がね、子供の命と云わずに、どうしてお前自身の命と代えて呉れと言わんかと云う事を頂いたんです。
 そこで私は神様に申しました。神様から私は生まれる前から、生まれてからそして私の一生涯と云うもの、神様から物語って下さった事があった。何時いつはこうなる何時いつはこうなる。そして神様が使うて下さる。言われた通りに今の合楽はなっとるです。と云う様にです、事を頂いているのですから、私が亡くなる事はそういう御用が出来ない事です。だから私は今死ぬる訳にはいきません。と、
 そんならどの子を取るかとこう言われる。さあ、私はその時ばっかりは三人の子供を、これが死んでよかとは、これは親として云える事じゃないですよ。そりゃあれが器量が悪かけんあれを取って下さいとは言えんです。思えんです。あいつはいっちょ言う事を聞かんけんで、あれはいっちょ先にして下さい、もう言う事を聞かんなら聞かんごと、器量が悪かなら悪かごと掛けられるのが親の思いですよ。その時だけは私もです、もう本当にああ親と子とはこんなものだろうかと実感しました。
 なら神様はどの子を取るかと、だから神様ここはです、とにかく神様あなたが良かつをです、お取り頂くならば私からこれ取れとは言いきらなかったのです。そしたら三球位のラジオのね、六球位のラジオにパッと変わるところを頂いたです。いわゆるお試しであったと云う事です。桜井先生当りでもああした良い信心をされるのだから、あれだけのおかげを今受けて行かれよるのだから、それこそお試しであったに違いないのです。それでならグラッとして医者に連れて行った。
 けど神様はそれでもまあだですね、まあだ分からんかと云うておられている様ではないですか。そして夕べ参って見えてからです。おかげで昨日病院に連れて行きましたと。もうがっかりするです。ほんなこつが前の日にもう行かんで良かごとなっとっとでしょうが、ああこれは、神様が行かんでよかごと言いござるなあと感じちゃこて、これだけみ教えを頂いとるとじゃけん、それに昨日行きましたじゃん。そしたらどおんなかった。もうほんに馬鹿んごたる話ですよ。またこげなチャンスとは何時もなかです。
 もう一昨日からここが辛抱のしどころぞと、日頃の信心はどうしとるかと、せめて家内にでも言える信心をね、頂いとったら三日後にはそういう安心が頂けるだけじゃなくて、それこそ力が受けられるです。そういう時にです、言う事を聞かぬ子は親でも仕方があるまいがと悲しい思いをなさるのじゃないでしょうか。だから本当にお互いがです、昨日喜代司さんが言われる信心をです。極端に私は言った訳ですけど、そういう言葉を使いませんでしたけど、云うならば皆さんは日参り夜参りしよんなさるけど。
 おかげの受け物作りじゃなくてね、おかげ貰いばっかりですから。おかげ頂けんのじゃないですかと、云うなら参りよんなさるばってん、罪滅ぼし的な信心じゃないですかと言われている思いがしました。何故罪滅ぼしかと云うと、言う事を聞きよらんお詫びですたい。なら言う事は決して難しい事は言い御座らんです。この神様は本気でその気になれば出来る事です。それを行じようとしない、それこそ親の言う事を聞かぬ子とはそういう風な事だと云う意味で聞いて頂きました。
 そして氏子信心しておかげを受けて呉れよと仰る事は、愈々只延つ幕なしに信心しよるから、お徳を受けると云う事じゃないです。ちゃんとそこにはきりきりがあるです。節があるです。その節を信心で乗り切った時にです、初めて次のおかげが受けられるのですし、次の力が受けられるのです。私共は改めて親の言う事を聞く子にならなければならん。只聞くだけじゃない。言う事を聞くと云う事は、聞いてそれを行ずる事だと云う事を今日は聞いて頂きましたね。
   どうぞ。